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壱『癒光露集め』
「︙︙おや」
花鏡はふと窓に目を遣った。
ひらいた窓から夜風と共に澄んだ清廉な香りが漂ってくる気配がする。神秘的な聖なる癒しの香り。部屋のなかにいて、それに気づいたのは初めてだ。不思議に思って窓に近づくと、遠くに小さな人影がふたつみえた。
花鏡は溜息をついた。あのふたりからだ。夜遅くに抜け出して、霧の発生するような場所にまで出かけてきたらしい。叱らなくてはならないのかもしれないが、面倒だったので見なかったことにして、花鏡は明日の準備を始めた。湖白霧がでたのなら、明日は予定変更して朝から癒光露集めだ。
「花影、癒光露集めをするから、時間になったら子供たちに伝えておいてくれ」
花鏡は三つ子の末弟である花影にそう伝えると、足早にその場を後にした。
いつもなら夜明けの散歩で大気に漂う湖白霧の微かな香りに気がつくのだが、今回は昨夜のうちに準備できたため、今朝は時間に余裕がある。花鏡は自分が仕えている少年である光夜のもとへ行く前に、長兄の花天に直接会いにいくことにした。子供たちが露を集めた後、大人たちがそれを癒し水にする前に、花天が祈りを捧げて舞うからだ。
花天は魂を視る一族のなかで最も力と才能があり、神事などで踊る舞師でもある。同じ日に光夜と月映が生まれたとき、その魂のもつ特別な輝きに最初に気づいたのも花天だった。
光夜と月映は、周りから血の繋がりのない魂の双子だといわれている。それはふたりが生まれるきっかけとなった旅の一座が授かったという神託と、光夜と月映の魂を視た花の三つ子の言葉によるものだ。
あるとき、夢で神託を受けたという旅の一座が里にやってきた。彼らは一年ほど里で過ごし、その間にふたりの女性が里の者と結ばれて、見ためも髪や瞳の色も両親とは全く違う赤子をそれぞれ産んだ。それが光夜と月映だった。
魂を視ることのできる花の三つ子が揃って『特別な魂の繋がりをもつ双神のごとき赤子だ』と伝えたため、旅の一座は神託によって生まれた赤子を残し、女性と結ばれた里の男性ふたりを連れて、里を後にした。
光夜と月映は自分たちの両親が誰なのか、旅の一座だったということしか知らない。物心ついた頃には里の大人たちが総出で世話をしていて、ふたりにとって彼ら全てが親のようなものだった。もともとこの里では殆どの子供がそのように育てられていたためか、もしくは花の三つ子がいつも気にかけるようにしていたからだろうか、光夜も月映も親がいないことをそれほど気にしている様子はなかった。
明るく柔和でいつも笑みを浮かべている光夜も、あまり笑わず静かで少し大人びてみえる月映も、少し特別な扱いは受けているものの、赤子の頃から他の子供たち同様に皆から愛され、のびやかに成長した。
多忙な長兄の花天は接する機会が少ないが、花鏡は光夜の、末弟の花影は月映の面倒をすすんでよくみるようにしている。
里長に神託の赤子に生涯仕えるようにと頼まれたこともあるが、光夜と月映の愛らしい姿とその美しく類 い稀なき魂の輝きを思い浮かべ、いわれなくてもそうしただろうと花鏡は思った。
花鏡が訪ねると、花天は嬉しそうに破顔した。いそいそと飲みものを淹れようとする花天を制して挨拶を済ませ、露集めをすることになったことを伝えると、花天は少し驚いたあと優しげに目を細めて頷いた。
「準備しておく。それにしてもこんなに早く湖白霧に気づくなんて、流石だな。やはりお前はわたしや花影よりも感覚が鋭い」
花天がそう褒めると、花鏡は少し決まりが悪そうに笑みを浮かべた。
実のところ、夜中に抜け出して草原に行ってきたらしい光夜と月映に纏わりついていた瑞々しく清らかな香りで気づいたのだが、それは話さないでおく。話せば、あのふたりは心配した花天に酷く怒られてしまうだろうし、花鏡としてはそのくらいのことは見逃してやりたい。
「準備が整ったら、いつもどおり現地で合流ね」
「では、また後ほど」
花天が沐浴のために踵を返すと、花鏡もその場から離れた。
きっとまだ寝てるだろうなと思いながら、次は光夜の部屋へと向かう。
「光夜さま〜! 起きてるか?」
合鍵を手に花鏡が戸を叩くと、光夜が顔をだした。意外にも既に着替えまで済ませている。
「ちゃんと眠れたか?」
そう言って、光夜の顔を覗きこむ。
「それが︙︙ちょっと眠れなくて︙︙殆ど寝てないかも」
「昨夜は雲がなくて星が綺麗だったもんな?」
「︙︙うん」
部屋に戻ってからも目が冴えて眠れず、徹夜してしまったのだ。見透かすような花鏡の視線に耐えきれず目を逸らすと、なぜか頭を撫でられた。
「朝食は?」
「藤寧さんたちが用意してくれたから食べた」
「そうか。今朝は癒光露を集めるから、なにか羽織ったほうがいいね」
そう言いながら衣装棚から上着を取りだすと、花鏡は慣れた手つきで光夜の身体にそれを羽織らせた。
花鏡に連れられた光夜が子供たちの集まる場所へやってくると、それに気づいた花影が薄い手袋と持ち手のついたガラス瓶を持って近づいてきた。
「光夜さま、こちらをどうぞ。今回も月映さまと一緒で構いませんか?」
「ありがとう。僕もそのつもりだった」
光夜は露集めに使うものを花影から受け取ると、彼の隣にいる月映にふわりと笑いかけた。それに気づいた月映も笑みを返す。
人が増えて騒がしくなってくると、花鏡と花影が視線を交わした。
「花影はこの子たちと歩いてきて。わたしは引率しないといけないから」
全員集まったという連絡を受けた花鏡が、花影の返事を待たずに急いで先頭へと移動する。
しばらく歩いていくと、遠くに湖がみえてきた。
湖のほとりに咲く花々が風に揺れて、清楚で青々しい空気がほのかに漂ってくる。朝露に濡れたみずみずしい草花の香りだ。
何人かの大人たちが湖に向かって小走りに駆けていく様子を、月映はじっとみつめていた。それに気づいた光夜がそっと耳打ちする。
「あのあたりを綺麗にするってことは、今日もあそこで花天が舞うんだね。気になる?」
「うん。あと五年くらいしたら俺も手伝えるかな?」
月映が羨ましそうにそう言うのを聴いて、光夜は笑った。
「どっちかというと、月映は踊りたいんじゃないの?」
「それは︙︙そうだけど。そんなの無理だろ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
光夜と月映は神さまから授かった子供だと言われている。月映が感謝を捧げ、気持ちをこめて踊れば、神々だって喜ぶに違いない。
ふたりが露を集める草花を見渡していると、誰が一番たくさん集めたか競おうとする子供たちの騒ぐ声が耳にはいってきた。
「今日はいつもより時間が早いから、たくさん集められるかもしれないね」
「そうかもしれないな」
「月映が場所を選んでよ。そのほうがたくさん集まるし」
「わかった」
光夜にそう言われた月映は感覚を研ぎ澄ませた。霧はもう消えているが、まだ少しひんやりとする。ふいに、月の光を湛えて揺蕩うような水の気配がして、月映はこちらにおいでと呼ばれている気がした。手繰り寄せるようにして、その場所を把握する。肌に馴染むような、心地よい月の光を浴びた露がそこにある。
そのとき、さらに遠くのほうでちらりとなにかを感じた。それは捉えどころのない影のようにするりと月映の胸をすり抜けてゆき、ぞくりと肌が泡立つ。
何故か少し遠くをみつめるようにしてぼんやりとしている月映に焦れた光夜は、月映の視線の先にまだ誰もいないことを確認すると、月映の手をとって露を集めにいこうと促した。
光夜の手の温もりを感じたとたん、得体の知れない感覚は夢から醒めたように消え、月映はほっと息をついた。
先ほど月映がみつけた場所で、ふたりは光を帯びてきらきらした水の粒に指を添えると、次々と瓶のなかにそっと落としていく。
「そういえば、さっき様子が少しだけ変だったけど、何かあったの?」
「あのとき、遠くのほうで微かな違和感のようなものを感じたんだ」
「僕には分からないや。森の中ならもう少し感覚が鋭くなると思うんだけど」
月映が生まれながらにして月光や水のゆらめきを言の葉のように感じとるように、光夜は星光や樹々のささやきが分かる。そのようなことは、
里の誰にもできない。ただ、花の三つ子だけは魂を視るだけでなく、何故か空や風のもたらすものに敏感であるらしい。
「いつもより多く集められたし、そろそろ行こうか」
そう言って光夜が軽く瓶をふってみせると、ふわりとしたやわらかい光を帯びた露がチラチラと輝きをはなつ。湖白霧がでた翌朝に溜まった露からしかとれない癒光露はとても貴重なもので、里の子供たちは小さい頃から露集めを手伝うことになっている。子供たちが成長したとき、この特別な露と相性のいい者のなかから癒光露を材料とした癒し水づくりを担う者が選ばれるのだ。
光夜と月映が集めた露を届けると、花鏡は口元をほころばせた。
「流石だね」
「月映さまにかなう者などいません」
誇らしげに言う花影の身体を、花鏡が指先で軽く小突く。
「花影は月映さまが大好きだもんな」
「光夜さまを溺愛してる花鏡に言われたくありません」
そんないつものやり取りを聞き流しながら、月映は早く湖岸に行きたくてそわそわとしていた。一番よくみえるところから、ずっと楽しみにしていた花天の舞う姿を観たいからだ。
月映が落ち着かなさげに視線をうろつかせていることに気づいた光夜は、月映の手をとって引っ張った。
「花天の舞を観にいこう?」
その言葉に月映は瞳をきらめかせ、期待に頬を紅潮させる。月映が花影のほうを振り返ると、行っておいでと微笑んで頷いているのが目にはいった。
光夜と月映は、それぞれの付き人に手を振って駆け出す。
陽の光に輝く美しい湖のまわりには既に多くの人が集まっており、湖岸には即席の舞台がつくられている。そのすぐ傍に静かにひとり佇む人影が見えた。舞うための優美な衣装に身を包んだ花天だ。
神々に捧げる祈りの舞を待ちわびて静まり返るなか、ついに花天が動きをみせ、草を踏みしめる足音がかすかに響く。やがて整えられた舞台まで来ると、淡く光る水が舞い手である花天の両手のひらに注がれた。
そして神々の恵みとされる癒光露が空に向けて大きく撒かれ︙︙舞の始まりを告げた。
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